2014年core of bells月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』第五回公演「重力放射の夜」

「重力放射の夜」はハードコアビッグバンドである。それは公演タイトルであると同時にバンドそのものの名でもあると言う。Twitterでの事前告知によれば9台のドラムを含む18人編成。会場には当然、ズラリと並ぶドラムセットの姿……は見えなかった。いつものことである。

core of bellsの公演では往々にしてそうであるように、今回もまた、彼らの姿は見えなかった。客席の正面左右を囲むように立てられた黒い壁で会場はいつもより一回り狭い。おそらく、いや明らかに、壁の向こうの空間にドラムセットが並べられているのだろう。と見せかけて実はそこにはいない、というのもままある事態なので壁の上から向こう側を覗いてみれば、やはりそこにはドラムセットが並んでいた。

9台のドラム、という編成から予想された通り、展開されたのはひたすらにドラムの連打だった。「重力放射の夜」=gravity blast nightというタイトルもそれを予告していた。wikipediaによれば「ブラスト(ビート)」とは「主としてエクストリーム・メタル (extreme metal) で用いられるドラム・ビートの一種であり、交互または同時に高速で(主としてバス・ドラムとスネア・ドラムを)打つ事によるビートである。 その音はマシンガンの発射音にも似ていて、爆風をイメージさせ、人間が叩ける速さの限界に挑むような叩き方である。」「今日では、ブラストビートと言えば通常180bpm以上で演奏され、グラヴィティ・ロール (gravity roll) と呼ばれるワン・ハンド・ロールを含むものは、“グラヴィティ・ブラスト”と呼ばれる」という。さて、であるならば、「重力放射の夜」について検討すべき点は次の二つに絞られるだろう。一つはドラムの台数、もう一つは演奏者の姿が見えないという点である。

ドラムセットが9台も用意されていたのはなぜか。もちろん、演奏それ自体について考えるならば、ドラムの台数が多ければ多いほどブラストそれ自体はよりエクストリームなものになっていく、と言うことができるだろう。人数に比例してドラムの手数は多くなる。実際、「重力放射の夜」で披露されたブラストは極めて密度の高いものであった。だが、それだけならば、演奏者の姿を隠す必要はない、と言うか、一般的にはライブは演奏者がプレイする様子も含めて楽しむものだろう。ではなぜ演奏者の姿は隠されていたのだろうか。

「重力放射の夜」においてドラム間で演奏についての意思疎通や協調がどの程度行なわれていたのかを知る由はないが、9台のドラムによる同時演奏は互いに干渉し合い、大きなうねりのようなものを発生させていた。個々のドラムが叩くリズムパターンの重なりとズレが、個々のリズムパターンによるそれとはまた異なる聴覚体験を生み出していたのである。それは演奏者のコントロールの外で生じる聴覚体験である。演奏が速さ的にも体力的にも人間の限界に挑戦するかのような高速で行なわれていたことを考えれば、演奏それ自体もまた演奏者のコントロールからの逸脱への契機を孕んだものであったと言うこともできるかもしれない。演奏者の姿が見えなかったことの意味はおそらくここにある。演奏者の姿が見えれば、観客は聴こえてくる音を演奏者の姿と結びつけて受容する。だが、演奏者の姿が見えなければ、観客は聴こえてくる音のうちどの音が一人の演奏者によって発せられたものなのか、つまりはひとまとまりのリズム・パターンを構成するものなのかを判断することができず、全ての音は等価なものとして聴取されることになる。結果として、個々のドラムのなすリズム・パターンではなく、それらが渾然一体となった「うねり」が聴取される。あるいは、ランダムにも思われる音によって構成される全体の中に、観客自らが何らかのパターンを聴くことになるだろう。

いずれにせよ、「重力放射の夜」では、演奏それ自体というよりはむしろ観客による聴取体験に焦点があてられていた。主観的な視覚体験が幽霊を生み出すように、主観的な聴覚体験が「うねり」や譜面には存在しないリズム・パターンを生み出す。その意味で、「重力放射の夜」もまた、『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』の他の公演と同じようにそこには存在しないはずのものを呼び出す降霊術なのであった。1時間以上もの間ドラム9台によるブラストに曝された観客は、耳鳴りととともに帰途に就く。耳鳴りもまた主観的な聴覚体験であり、core of bellsによる降霊術の結果であることは言うまでもないだろう。

2014年core of bells月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』第三回公演「Last Days of Humanity」

2014年core of bells月例企画第三回公演「Last Days of Humanity」(以下「LDH」)はあらゆる意味で文字通り傍若無人な、つまりは傍らに人無きがごときパフォーマンスだった。

会場である六本木スーパーデラックスに入るとそこはすでに謎の空間と化していた。段ボールや白いプラスチックボードなどで作られた構造物がそこかしこに立っている。チープな素材でざっくりとした作りの構造物、そして会場の散らかり具合が文化祭前日の教室を思わせる。一応の舞台となる中央の空間ではGt.の吉田翔が携帯片手に時に会場内をうろうろしながら中華(?)の予約を取り続けている。その後ろを付いて歩き、何やらメモを取り続ける女。舞台中央前方には女が倒れており殺されたかのような装飾が施されている。天井からは等身大の長方形のプラスチックボードが何枚か吊るされていて、どうやらそれは上げ下げ可能なようだ。会場にはおそらく中に人が入っているであろう巨大なショッピングバッグ(?)や衣装ボックス(?)が徘徊していて、しばしば奇声や鳴き声(?)を発しては腕や足など体の一部を突き出している。客席にはキャップと長髪で顔の見えない不審な男。不審な男が携帯電話を通じて出す指示(「営業スマイルをしてください」「最近あった悲しい出来事を言ってください」)は、下手にある構造物の壁に映し出される映像に映る男によって遂行される。彼は客席後方の構造物の中にいるようだ。下手の構造物の上部からは細長く切られた紙片が落とされ、上手の構造物の上部からはメジャーが長々と突き出される。会場中に広がるカオスを4、5人のカメラマンが撮影している。やがて長髪の男が「歌を歌ってください」と指示を出すと、会場のそこかしこから「SWEET MEMORIES」に唱和する声が聞こえ、開演の時間となる……。

と、パフォーマンス開始までの会場の状況をそれなりに詳細に描写したわけだが、この状況はパフォーマンスが始まってもそれほど変わらない。吉田以外のcore of bells(以下COB)のメンバーが姿を現わすこともない。もちろん曲の演奏も行なわれるのだが、およそ80分のパフォーマンスの中で演奏の占める時間はおそらく10分から15分ほどだったと思われる。つまり観客はほとんどの時間、「何だかよくわからない散発的に起きる出来事」を眺めて過ごすことになるのである。しかもそれらの出来事は客席後方を含めた会場中で起きるため、客席に座る観客がその全てを目にすることはできない(そこかしこに立つ構造物の中でも「何か」が起きている以上、そもそも観客は会場で起きる出来事の全てを見る/知ることはできないようになっている)。さて、それではこの一見無秩序なパフォーマンスのねらいは一体どこにあるのだろうか。このような問い自体がある種の罠に陥っているような気もしなくもないのだが、ひとまずは愚直にこのパフォーマンスの「解釈」を試みるとしよう。

一見して明らかなことは、この「Last Days of Humanity」という演目が何らかの形で「見える/見えない」を主題としているということだ。さまざまな形でかくれんぼめいたことが行なわれていることを考えれば、それはあまりにあからさまな主題であるかのようにも思われる。だがこの方向性についてはもう一歩考えを進めることができるだろう。そのヒントは舞台中央の「死んでいる女」と「カメラマンたち」にある。

舞台中央の「死んでいる女」は「見て見ぬフリ」をされる存在である。舞台中央で「死んでいる女」は本当は生きているにも関わらず「死んでいる女」という役割を過剰な死の装飾によって担わされており、ゆえに観客は彼女を「死んでいる女」として見る。最初から最後まで死んでいる状態にある彼女の役割は人形によっても代替可能なように思えるが、その役割がわざわざ人間によって担われているということは、「生きているにも関わらず死んでいると見なされること」に意味があったのではないだろうか。

「カメラマンたち」もまた、「死んでいる女」とは違った意味で「見て見ぬフリ」をされる存在である。カメラマンは明らかにCOB側によって用意された存在であるにも関わらず、観客が彼らをパフォーマンスの一部だと見なすことは(少なくとも最初のうちは)ない。なぜなら、パフォーマンスを記録するためにそこにいる(と見なされる)カメラマンはパフォーマンスの外部にいる存在だ(と見なされる)からである。ところが、このカメラマンたちはやがて「パフォーマンスの内部」へと侵入しはじめる。彼らは最初のうちは控えめに=観客の邪魔にならないように舞台の外側から撮影を行なっているのだが、やがてはパフォーマンス中であるにも関わらず舞台に入り込んでの撮影をはじめる。もちろん観客はそれ以前からカメラマンが会場内に存在することを認識してはいるのだが、カメラマンが舞台上に現われることで、観客はカメラマンもまたパフォーマンスの一部であるという印象を持ち、そのように見ることになるのである。ここでは「不可視」から「可視」への転換が起きているということが指摘できるだろう。

さて、では「LDH」の主たるねらいは「不可視」の「可視」への転換にあったのだろうか。しかし、それならば「死んでいる女」は生き返らなければならないはずである。ここで再度、「死んでいる女」に対する観客の認識を検討し直してみよう。まず、会場に入ってきた観客は「死んでいる女」を発見する。女に施された「死んでいる」装飾を見た観客は、女を「死んでいる」ものと見なすだろう。ここでは観客の認識は「そこにいることに気づく=可視」から「死んでいるものと見なす=不可視」へと移行している。ところが、この「不可視」の認識は不完全なものである。なぜなら、開場時から「死んでいる女」を見た観客は、意識的にであれ無意識にであれ、「この女性はこれからのパフォーマンスでどのような役割を担うのだろうか」と考え、パフォーマンスの中で女性が動き出すこと=「生き返ること」を予期するからである。しかし予想に反して女は「死んだまま」であり続ける。動かないものに注意を払い続けることは難しい。パフォーマンスを見ている観客の意識はいつしか「死んでいる女」から完全に離れ、その瞬間、女ははじめて完全に「不可視」な存在となるのだ。

実のところ、このような「可視」から「不可視」への移行こそが、「LDH」全体を貫くモチーフとしてある。一度は「可視化」されたカメラマンたちもまた、結局のところ撮影行為を続けるだけであり、変わった行動に出るわけではない。結果として、カメラマンの存在は「そういうもの」として観客の意識の片隅へと追いやられることになる。そう、「LDH」ではあらゆる奇妙な存在が「そういうもの」として片付けられていく。たとえば、パフォーマンスがはじまると舞台下手に一組の男女が登場し、応援団の「振り」のような動きをしはじめる。振りは延々と繰り返されるので、登場した当初は彼らに目を向けていた観客も、そのうち興味の対象を他へと移すことになる。「出来事の生起」は注意を集めるが、その「継続」は注意を散漫なものへと変えてしまう。その「出来事」が明白な意味を持たないようであればなおさらである。

「LDH」ではほとんど無意味とも思える出来事が散発的に生じ、その多くは執拗に繰り返される。観客は何かが起きる度にその出来事に注意を引かれるが、同じことの繰り返しにやがては興味を失うことになる。「退屈」とは興味を向けるべき対象のない状態を示す言葉だが、「LDH」の向かう先は「飽和した退屈」だと言えるだろう。観客は興味を引かれては失って、ということを延々繰り返した末に、注意の弛緩しきった状態に至る。様々なことが起きている会場は、しかし同時に至極散漫だ。Last Days of Humanity.「全てが希薄になってしまった人々の最後の日々」。core of bellsはいながらにして空気のように薄い存在に成り果てたのであった。

 

第1回公演第2回公演への批評と合わせて加筆修正したものを5/5(月・祝)の文学フリマにて発売のペネトラ4に掲載。

 

山崎健

演劇研究・批評。SFマガジンにて「現代日本演劇のSF的諸相」連載中。早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース博士後期課程。@

愛の渦 vs テラスハウス SEXが織り成す群像劇

テラスハウス』というテレビ番組が中高生の間で人気らしい。複数の男女の共同生活の様子を追うリアリティ番組である。おしゃれなカメラワークとカット割が人気の理由と聞いた。だがリアリティという点においてははなはだ疑問である。などといったら大人気ないと批判されるだろう。誰だってある程度の筋書きがあることは想像できる。『テラスハウス』の住人は台本以外のところでは何を思っているのだろう。そちらに興味をひかれるのは自然なことだ。例えばテラスハウスの撮影メイキングがあったら面白そうだ。~と~は実際すごい仲悪いとか、~と~は穴兄弟とか、リアリティのなかのさらにリアルな本音を聞きだすのだ。リアリティ番組と謳うのであればそれぐらいしてほしい。しかしそのようなメイキングを作ったとしても、出演者が心の底で何考えているか明らかにできないだろう。

『愛の渦』は言ってしまえばSEXありの『テラスハウス』のようなものである。見知らぬ男女8人がマンションの一室に集まって夜11時から朝の5時までSEXをし続ける。そしてテラスハウスとは違って、登場人物たちが心の底で何を考えているかが丸わかりである。四の五の言わずヤリたい。ただそれだけである。実生活での事情や肩書きは意味がない、いや必要ないのだ。スケベという事実だけ存在し、それに表も裏もない。ただスケベが集まってやりまくる映画である。

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乱交パーティのHPや、知人からの紹介でやってきた8人は、マンションのルールの説明を受けた後、リビングに放置される。彼らはクラス替えして初めてする会話みたいにぎこちなく、探り探りぽつぽつと会話を行っていき、しだいに代わる代わるSEXを行っていく。行為後の休憩中に仲間のように打ち解けあい、ときには仇のようにぶつかり合う8人。一見したところ、そこで繰り広げられる群像劇は『テラスハウス』のそれと何ら変わりないようにさえ思われる。しかし『愛の渦』が『テラスハウス』と決定的に異なる点が存在する。

テラスハウス』には人と人との関係を通じて、自らの人生や相手を理解しあい、特別な感情や教訓を得よう、未来を有意義にしよう、というような目的がたぶんある。しかし『愛の渦』における乱交パーティには、何も残らない。目的は「四の五の言わずヤリたい」ただそれだけであり、パーティの後にはコンドームの残骸以外何も残らないのだ。

だが一部のメンバーはパーティーが終わった後も特別な感情を持ってしまい、それだけで終わらせたくないと思ってしまう。SEXから生まれる恋心、なんとも奇妙な感情である。『テラスハウス』はもちろん、民放のドラマで扱うことができないだろう。観る者は、倫理や道徳を超えて、その感情は自然なことなのか、いけないことなのか、純粋なのか不純なのか、と思いを巡らすはずだ。しかし映画は、そこから、教訓や真実を読み取ろうとする私たちに対して「スケベ以外に本質はない」というニヒリスティックな態度で突き放し、霧が晴れぬまま終わってしまう。私たちはなぜこれほどまでにスケベなのか、そしてなぜスケベだけで満足しないのか。「四の五の言わずヤリたい」という本音は、もしかしたら別の目的のための巧妙な建前なのかもしれない。

2014年core of bells月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』第二回公演「moshing maniac 2000」

フロアは熱狂に包まれていた。メンバーの登場前からフルボルテージのCOBコール。前座のNEVER END RAINBOWでの鬱憤はかえってcore of bellsへの期待を高める結果となったと言えるだろう。「Anything but the C×O×B」冒頭の一音は衝撃となって空間を揺らし、ギャルソンのボルテージは限界を越える(言うまでもなく、ギャルソンとはファナティックなCOBファンを指す呼称であり、彼らはみな一様に黒いCOB-Tシャツを身につけることでバンドへの忠誠心を示す)。あとはただただケイオティックな狂乱。ひたすらに肉体の衝突。モッシュモッシュモッシュ!それは『moshing maniac 2000』の名に恥じぬ肉と音との格闘技だ。肉と肉とがぶつかり合う熱。その愛。手足がちぎれんばかりに身をくねらせダイブをキメるギャルソン。突き上げられる拳。COBというドラッグで真っ白にヒートアップした頭にそれはときにスローモーションのようにさえ映る。われわれはCOBを見に来たのではない。COBに、その音になるために来たのだ。ギターの、ベースの、ドラムの振動はフロアと共鳴し、われわれのハートを震わせる。あの日あの空間で刻まれた鼓動をわれわれは決して忘れないだろう。COBは生きることと音楽とが等価であり等価でしかあり得ないことを示してみせたのであった。

(あの日のSDLXの熱気の片鱗はtwitterハッシュタグ#MM2000でうかがい知ることができる。是非とものぞいて見ていただきたい。)

* * *

さて、ハッシュタグはご覧いただけただろうか。もし見られる環境にあるのであれば、まずはハッシュタグに残された言葉を確認してからこの文章を読み進めていただければと思う。そこには「いかにも」なファンによる「いかにも」な言葉が『moshing maniac 2000』(以下『mm2000』)の「記憶」として残されている。だがしかし、その「記憶」は「本物」なのだろうか。その「記憶」が「本物」であるという判断は誰によって、どのような基準でくだされるのだろうか。現場に、つまりは2014年2月19日(水)の六本木スーパーデラックスにいることのできなかった観客にとって、自分ではない何者かによって語られる今回の上演の「記憶」は常に不確かなものでしかない。いや、突き詰めて考えれば、全ての「記憶」は不確かなものでしかないのではないか。「記憶」を他者と共有することはできない。であるならば、それは何によって保証され得るのか。

core of bellsは月例企画「怪物さんと退屈くんの12ヵ月」において「気配の移り変わりを使って作曲を試み」るという宣言をしている。『mm2000』で観客が目撃したものはまさに「気配」、言い換えるならば「空気」であり、というよりむしろ、今回の上演において観客はどこまでいっても「空気」を感じることしかできなかったと言うことができるだろう。最初から最後までcore of bellsが観客の前にその姿を見せることはなかったのだから。

会場は3つのゾーンに区切られていた。通常の客席とバンドセットの置かれている演奏ゾーン、その間には両者を分断するかのような(と言うか実際分断しているのだが)モッシュゾーン。緑色のネットによって四角く隔離されたモッシュゾーンはアンダーグラウンドな格闘技場のリングのようにも見える。モッシュゾーンにはエキストラとして仕込まれた数十人のモッシャーたちが蠢き、であるがゆえに、観客は舞台で演奏するcore of bellsの姿を見ることができない。観客が目撃するのはひたすらにcore of bellsの演奏に熱狂する「ファン」たちの姿であり、その熱狂の「雰囲気」だということになる。

さらに、客席の右手にはtwitterの画面が映し出され、ハッシュタグ#MM2000が付された今回のイベントの「実況ツイート」が流れていく。しかしその過熱気味の「実況ツイート」もまたモッシャーたちと同じく仕込まれたものであり、「本物の」観客と捏造されたタイムラインとの温度差が失笑を生む(なんせ「本物の」観客はcore of bellsの姿を見ることができず、その状態で狂乱のモッシュを見せられるのだから置いてけぼりなのである)。

「本物の」観客はいずれにせよライヴの「空気」だけを味わい続けることになるのだが、捏造されたタイムラインはさらに、上演そのものがフェイクなのではないかという疑惑を招く。タイムライン上を流れる言葉はいかにも嘘くさい。目の前のリングでモッシュに興じる観客は明らかに仕込みである。core of bellsの姿は見えない。…見えない? いや待て、そもそもcore of bellsはステージ上に本当にいるのか? たしかにcore of bellsの演奏は聞こえてくる。だがそれが本当に今演奏されているものだという保証はないではないか。そこにあるのは「空気」だけなのでは? 曲と曲との間には疑惑を煽るかのように潮騒の音が聞こえる。そこに海がないのは間違いない。ではcore of bellsは?

モッシャーたちは曲に合わせてさまざまなコンテンポラリー・モッシュを繰り出す。それが観客に認識されていたかは甚だ怪しいと言わざるを得ないが、寸劇が行なわれたり突如としてスローモーションが挿入されたりと、少なくともそこに段取りが存在していることは明らかだっただろう。彼らは事前にレクチャーを受けている。音楽に合わせて振り付けられた動きを実行しているという意味で『mm2000』のモッシュは一種のダンスなのだ。そして観客が見ているのがダンスであるならば、音楽が生演奏である必要は必ずしもない。

さまざまな角度から浮かび上がるcore of bells不在疑惑。そして決定的な瞬間が訪れる。アンコール曲が終わったかと思うと大挙して会場の外に走り去るモッシャーたち。残されるのは無人のステージ。やはりcore of bellsは演奏していなかった…!

しかしこの結論もまた保留せざるを得ないのだった。なぜなら観客はモッシャーたちに紛れて走り去るcore of bellsの姿を目撃するからであり、たとえそれが見えなかったとしても、彼らが演奏していない状態もまた目撃されていない以上、演奏が行なわれていなかったと断言することもまた不可能だからである。

そしてもちろん、ここまでこの文章を読んできたあなたには明らかなように、この批評文もまた、真実を述べたものであるとは限らない(その意味で、第1回公演『お気づきだっただろうか?』に寄せられた佐々木敦の批評文は第2回公演を先取りしたものであったと言えるだろう)。幽霊の存在を信じるためには、結局のところ、自らそれを目撃するしかないのだ。

 

core of bells 2014年月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』

 

山崎健太 演劇研究・批評。SFマガジンにて「現代日本演劇のSF的諸相」連載中。@

2014年core of bells月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』第一回公演「お気づきだっただろうか?」

 core of bellsはハードコア・パンクバンドである、らしい。と何だか歯切れの悪い言い方になってしまうのは、そのような音楽性によるジャンル分けは彼らの本質を何ら捉えていないからなのだが、彼らがバンドという形態を採っている以上、彼らを知らない人にその活動を紹介するときにひとまずは何らかのイメージを浮かべやすいと思われる音楽のジャンル名によるレッテル貼りをしてみせることはそれなりに有効である可能性もなくはないだろう。

 実際のところ、音源から受ける印象はハードコア・パンクと聞いて漠然と思い浮かべるそれからさほど離れてもいないように思われる。だが一方で、彼らが2011年から2013年の「吾妻橋ダンスクロッシング」や国立近代美術館で2012年に行なわれたパフォーミング・アーツのイベント「14の夕べ」に参加しているという事実を指摘するだけで、彼らの活動が単なるハードコア・パンクのそれに収まるものでないことを示すには十分だろう。「14の夕べ」の記録集である『ドキュメント|14の夕べ』には「『飲んだくれのおっさんがダラダラしている』時間や『寝たり、申し訳なさそうにトイレに行く客』が音と同等、もしくはそれ以上に音楽を構成していることに気づいた」という彼らの言葉がある。core of bellsの本質は「『音楽を構成する要素が音だけではない』という仮定の下に」行なわれるライブ・パフォーマンスにあるのだ。

 * * *

 『お気づきだっただろうか?』は「怪物さんと退屈くんの12ヶ月」と題された2014年core of bells月例企画の第1回公演である。「お気づきだっただろうか?」という言葉は一昔前のテレビの心霊番組の引用であり、「『怪物さんと退屈くんの12ヶ月』は降霊術と極めてよく似ています」というフライヤーの文言もこれと対応しているように思われる。

 まずはパフォーマンスの概要をざっと確認しておこう。

ある日Aさんという男性から番組宛に送られてきた映像にはAさんの参加するバンドのライヴが映っていた。しかしライヴが最高潮に達したその瞬間、映像には驚くべきものが映り込んでいたのである。それでは早速ご覧いただこう。

ナレーションとともにおおよそこのような意味合いの文章が会場の壁に映し出されパフォーマンスははじまる。メンバーはすでに盛り上がっており、どうやらライブの途中らしい。そのまま何曲か演奏が続き、やがて「ありがとう」の言葉とともにライブが終わると、再びのナレーションとともに「お気づきだっただろうか?」という言葉が壁に映し出され、「それではもう一度ご覧いただこう」と先ほどのパフォーマンスが途中から「再生」される。ひと通りパフォーマンスが終わると再び「お気づきだっただろうか?」「それではスローモーションでもう一度ご覧いただこう」と、今度はスローモーションでパフォーマンスの一部が「再生」される。つまり、『お気づきだっただろうか?』は映像の繰り返しやスロー再生を生身の人間によって実現してみせる試みなのである。およそ1時間ほどの公演は基本的にこのワンアイディアによって支えられており、その繰り返しの中でさまざまな出来事(?)が展開していくというのが基本的な構成である。

 生身の人間による「スロー再生」はそれだけでもそれなりにおかしいのだが、そもそも全体の設定は「心霊番組」を模したものであり、「スロー再生」をする中で観客はそれまで「気づかなかった」出来事に「気づかされる」ことになる。たとえば、最初の「スーパースロー再生」で明らかになるのは、実はメンバーが演奏中のある一瞬の間にドラムスの池田武史に誕生日プレゼント(?)を渡していたという事実である。core of bellsのパフォーマンスは「そんなわけねえだろ!」というツッコミも織りこみ済みのその「そんなわけなさ」がゆえに、つまりは見えるはずのないものが見えてくるというその意味において「降霊術」足り得ているのだ。

 およそ心霊写真やそれに準じる映像の怖さというのは、撮影したときには存在しなかったはずのものがイメージの中に事後的に見出されるという構造に因るのであり、現実(=オリジナル)を反復するはずの複製(=コピー)に生じるエラーこそが恐怖の対象となる。『お気づきだっただろうか?』では「反復」に伴うエラーが人為的に挿入される点に馬鹿馬鹿しさがあるわけだが、実はここには音源とライヴ・パフォーマンスをめぐる本質が表れていると見ることもできる。

 音源自体はもちろん録音時の演奏(=オリジナル)の複製(=コピー)として存在している。だが、音源として流通している曲がライヴで演奏されるとき、オリジナルとコピーの関係は反転することになる。すでに音源を聴いたことのある観客にとって、ライヴ・パフォーマンスとしての演奏はオリジナルとしての音源の「再生」のバリエーションの一つとして立ち現れてくるからである。あるいは、曲の楽譜を想定することでこの構図はより明確に見えてくることになるだろう。楽譜に基づいた演奏は一つの「反復」でありながら常に差異=エラーを孕んでいる。

 だからこそ、ライヴ・パフォーマンスは本質的に降霊術なのである。夜ごと召還される幽霊=エラーに立ち会うために観客はライヴ会場へと足を運ぶ。ライヴの魅力はむしろその差異=エラーにこそ宿っていることは言うまでもない。目の前で確かな存在感を放つライヴ・パフォーマンスは、一晩で消えゆくことを定められた幽霊でもあるのだ。

 永遠とも思われる引き延ばされたスローモーションの果てに、ステージ上には幽霊役の吉田翔(Gt.)だけが残る。(ほぼ)無人のステージに聞こえる「お気づきだっただろうか?」という言葉。だがもはや(ほぼ)無人のステージに観客はたしかに幽霊を見ていた。一晩限りのライヴ・パフォーマンスの向こうに広がる無限の時間に潜む幽霊たち。パフォーマンスの終盤に用意された退屈でほとんど無為にさえ思える時間。しかしそのような時間の果てにこそ、観客は幽霊と邂逅し得る。そのことに「お気づきだっただろうか?」と改めて問う必要はおそらくないだろう。

行動と深層心理で描かれるキャラクター 『ギャル男VS宇宙人』の新しさ

マンガ作品を単行本として世に発表するには漫画誌に連載し、それをまとめたものを出版する方法が一般的です(昨今はウェブで作品を発表する人も少なくありませんが)。しかし漫画誌の連載枠を獲得することは、漫画家間での激しい競争を勝ち抜くことであり、非常に困難なことです。さらにさらにその連載を継続させていくために、人気を維持することは至難の業!ですが「連載を続けていくこと」と同様に「短い連載で物語を完結させること」もとても難しい、ということはあまり話題になりません。突然連載の打ち切りが決まってしまったら、その中で物語を構成しなければいけません。また短期連載である場合、キャラクターや世界観を決められた連載の中に収めるには、高度なストーリーテリングが要求されます。しかし今から紹介します吉沢潤一『ギャル男VS宇宙人』は、1巻という限られたスペースのなかで、独自の方法でキャラクターを描き、心情をより深くまで描くことに成功している作品なのです。

漫画にはたいてい、キャラクターをよりリアリティのあるものにするために「設定」が設けられます。例えば「仲間を助けることができず見殺しにした過去がある」とか「呪いの部族に育てられ、すべての存在を憎んでいる」とか。しかしコトバだけだと物語にリアリティが生まれないので、それらを演出のなかにおりこんでいく必要があります。一番手っ取り早いのが、過去のエピソードをそのまんま回想シーンにして出しちゃう工夫のない方法があります。例えば某海賊漫画は豪華なことに主要キャラクターには感動的な過去のエピソードが用意されています。しかしそれをするためにはある程度の連載スペースが必要になるでしょう。なので短期連載の作品は工夫して物語の中にキャラクターの過去や設定を入れ込んでいかなければいけません。ここで「ギャル男VS宇宙人」の作者、吉沢潤一はどうしたかといいますと、5ページ程度のあるシーンにキャラクターの過去や設定、いわばプロットのようなものをすべてまとめて描いてしまったのです。

物語のクライマックス、主人公たちは「今までの価値観を180度変えてしまう」といわれる伝説のドラッグ「ヘップバーン」を使うことになります。そこで彼らはそのクスリによる幻覚の中で、過去の体験、感情を圧縮した感覚を味わいます。そのシーンは右上から左下へ読み進める一般的な漫画の読み進め方はなく、時間軸がバラバラなコマとフキダシが四方八方に拡散し、うごめき、溶けてていき、吸い込まれていく前衛的なシーンになっています。こんな説明だとコミックビーム系の不条理漫画かなんかだと思ってしまうかもしれませんが、本作ではそのシーンはただ奇をてらっただけの演出ではなく、物語において重要な役割を果たしているのです。

そのシーンの構造を理解するために「ナカイの窓」というバラエティ番組を例にするととてもわかりやすいです。「ナカイの窓」という番組は、まず出演者たちがトークを行い、最後にその様子を見ていた精神科医や心理学者が、出演者の言動から深層心理を分析するという2段階の番組構成になっています。そして『ギャル男VS宇宙人』にも同様の構造を見ることができます。始めは何の変哲もない青春バトルギャグマンガをよそおいながら物語が進行していきます。ここはナカイの窓における「トーク」部分になり純粋に楽しむことができます。しかし「人生の価値観を180度変えてしまう」伝説のドラッグの幻覚シーンによって、今まで意識してみていなかった登場人物たちの何気ない行動、言動、心情が一気に伏線へと変化し、ブラックホールに吸い込まれるが如く一瞬で回収されていくのです。この幻覚のシーンは登場人物たちの過去や設定をいっぺんに提出し、同時に「人生の価値観が180度変わる」瞬間の演出にも成功しています。まさしく「ナカイの窓」における人物のより深層の心理が分析される部分に類似しています。青春バトルギャグマンガかと思われた本作は、あのシーンによって「ギャル男」という理解不能な生物のアイデン&ティティのあり方までも提示するリアリズムのマンガへと変貌してしまうのです。行動と深層心理の2つからキャラクターを描くことで、一巻というスペースの中で、それぞれが存在する意義まで描き、「ギャル男」の人生すべてを体験してしまったかのような錯覚におちいっていく、唯一無二のギャル男マンガ、それが『ギャル男VS宇宙人』です。

 

ギャル男vs宇宙人 (ビッグコミックス)

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