愛の渦 vs テラスハウス SEXが織り成す群像劇

テラスハウス』というテレビ番組が中高生の間で人気らしい。複数の男女の共同生活の様子を追うリアリティ番組である。おしゃれなカメラワークとカット割が人気の理由と聞いた。だがリアリティという点においてははなはだ疑問である。などといったら大人気ないと批判されるだろう。誰だってある程度の筋書きがあることは想像できる。『テラスハウス』の住人は台本以外のところでは何を思っているのだろう。そちらに興味をひかれるのは自然なことだ。例えばテラスハウスの撮影メイキングがあったら面白そうだ。~と~は実際すごい仲悪いとか、~と~は穴兄弟とか、リアリティのなかのさらにリアルな本音を聞きだすのだ。リアリティ番組と謳うのであればそれぐらいしてほしい。しかしそのようなメイキングを作ったとしても、出演者が心の底で何考えているか明らかにできないだろう。

『愛の渦』は言ってしまえばSEXありの『テラスハウス』のようなものである。見知らぬ男女8人がマンションの一室に集まって夜11時から朝の5時までSEXをし続ける。そしてテラスハウスとは違って、登場人物たちが心の底で何を考えているかが丸わかりである。四の五の言わずヤリたい。ただそれだけである。実生活での事情や肩書きは意味がない、いや必要ないのだ。スケベという事実だけ存在し、それに表も裏もない。ただスケベが集まってやりまくる映画である。

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乱交パーティのHPや、知人からの紹介でやってきた8人は、マンションのルールの説明を受けた後、リビングに放置される。彼らはクラス替えして初めてする会話みたいにぎこちなく、探り探りぽつぽつと会話を行っていき、しだいに代わる代わるSEXを行っていく。行為後の休憩中に仲間のように打ち解けあい、ときには仇のようにぶつかり合う8人。一見したところ、そこで繰り広げられる群像劇は『テラスハウス』のそれと何ら変わりないようにさえ思われる。しかし『愛の渦』が『テラスハウス』と決定的に異なる点が存在する。

テラスハウス』には人と人との関係を通じて、自らの人生や相手を理解しあい、特別な感情や教訓を得よう、未来を有意義にしよう、というような目的がたぶんある。しかし『愛の渦』における乱交パーティには、何も残らない。目的は「四の五の言わずヤリたい」ただそれだけであり、パーティの後にはコンドームの残骸以外何も残らないのだ。

だが一部のメンバーはパーティーが終わった後も特別な感情を持ってしまい、それだけで終わらせたくないと思ってしまう。SEXから生まれる恋心、なんとも奇妙な感情である。『テラスハウス』はもちろん、民放のドラマで扱うことができないだろう。観る者は、倫理や道徳を超えて、その感情は自然なことなのか、いけないことなのか、純粋なのか不純なのか、と思いを巡らすはずだ。しかし映画は、そこから、教訓や真実を読み取ろうとする私たちに対して「スケベ以外に本質はない」というニヒリスティックな態度で突き放し、霧が晴れぬまま終わってしまう。私たちはなぜこれほどまでにスケベなのか、そしてなぜスケベだけで満足しないのか。「四の五の言わずヤリたい」という本音は、もしかしたら別の目的のための巧妙な建前なのかもしれない。