2014年core of bells月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』第一回公演「お気づきだっただろうか?」

 core of bellsはハードコア・パンクバンドである、らしい。と何だか歯切れの悪い言い方になってしまうのは、そのような音楽性によるジャンル分けは彼らの本質を何ら捉えていないからなのだが、彼らがバンドという形態を採っている以上、彼らを知らない人にその活動を紹介するときにひとまずは何らかのイメージを浮かべやすいと思われる音楽のジャンル名によるレッテル貼りをしてみせることはそれなりに有効である可能性もなくはないだろう。

 実際のところ、音源から受ける印象はハードコア・パンクと聞いて漠然と思い浮かべるそれからさほど離れてもいないように思われる。だが一方で、彼らが2011年から2013年の「吾妻橋ダンスクロッシング」や国立近代美術館で2012年に行なわれたパフォーミング・アーツのイベント「14の夕べ」に参加しているという事実を指摘するだけで、彼らの活動が単なるハードコア・パンクのそれに収まるものでないことを示すには十分だろう。「14の夕べ」の記録集である『ドキュメント|14の夕べ』には「『飲んだくれのおっさんがダラダラしている』時間や『寝たり、申し訳なさそうにトイレに行く客』が音と同等、もしくはそれ以上に音楽を構成していることに気づいた」という彼らの言葉がある。core of bellsの本質は「『音楽を構成する要素が音だけではない』という仮定の下に」行なわれるライブ・パフォーマンスにあるのだ。

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 『お気づきだっただろうか?』は「怪物さんと退屈くんの12ヶ月」と題された2014年core of bells月例企画の第1回公演である。「お気づきだっただろうか?」という言葉は一昔前のテレビの心霊番組の引用であり、「『怪物さんと退屈くんの12ヶ月』は降霊術と極めてよく似ています」というフライヤーの文言もこれと対応しているように思われる。

 まずはパフォーマンスの概要をざっと確認しておこう。

ある日Aさんという男性から番組宛に送られてきた映像にはAさんの参加するバンドのライヴが映っていた。しかしライヴが最高潮に達したその瞬間、映像には驚くべきものが映り込んでいたのである。それでは早速ご覧いただこう。

ナレーションとともにおおよそこのような意味合いの文章が会場の壁に映し出されパフォーマンスははじまる。メンバーはすでに盛り上がっており、どうやらライブの途中らしい。そのまま何曲か演奏が続き、やがて「ありがとう」の言葉とともにライブが終わると、再びのナレーションとともに「お気づきだっただろうか?」という言葉が壁に映し出され、「それではもう一度ご覧いただこう」と先ほどのパフォーマンスが途中から「再生」される。ひと通りパフォーマンスが終わると再び「お気づきだっただろうか?」「それではスローモーションでもう一度ご覧いただこう」と、今度はスローモーションでパフォーマンスの一部が「再生」される。つまり、『お気づきだっただろうか?』は映像の繰り返しやスロー再生を生身の人間によって実現してみせる試みなのである。およそ1時間ほどの公演は基本的にこのワンアイディアによって支えられており、その繰り返しの中でさまざまな出来事(?)が展開していくというのが基本的な構成である。

 生身の人間による「スロー再生」はそれだけでもそれなりにおかしいのだが、そもそも全体の設定は「心霊番組」を模したものであり、「スロー再生」をする中で観客はそれまで「気づかなかった」出来事に「気づかされる」ことになる。たとえば、最初の「スーパースロー再生」で明らかになるのは、実はメンバーが演奏中のある一瞬の間にドラムスの池田武史に誕生日プレゼント(?)を渡していたという事実である。core of bellsのパフォーマンスは「そんなわけねえだろ!」というツッコミも織りこみ済みのその「そんなわけなさ」がゆえに、つまりは見えるはずのないものが見えてくるというその意味において「降霊術」足り得ているのだ。

 およそ心霊写真やそれに準じる映像の怖さというのは、撮影したときには存在しなかったはずのものがイメージの中に事後的に見出されるという構造に因るのであり、現実(=オリジナル)を反復するはずの複製(=コピー)に生じるエラーこそが恐怖の対象となる。『お気づきだっただろうか?』では「反復」に伴うエラーが人為的に挿入される点に馬鹿馬鹿しさがあるわけだが、実はここには音源とライヴ・パフォーマンスをめぐる本質が表れていると見ることもできる。

 音源自体はもちろん録音時の演奏(=オリジナル)の複製(=コピー)として存在している。だが、音源として流通している曲がライヴで演奏されるとき、オリジナルとコピーの関係は反転することになる。すでに音源を聴いたことのある観客にとって、ライヴ・パフォーマンスとしての演奏はオリジナルとしての音源の「再生」のバリエーションの一つとして立ち現れてくるからである。あるいは、曲の楽譜を想定することでこの構図はより明確に見えてくることになるだろう。楽譜に基づいた演奏は一つの「反復」でありながら常に差異=エラーを孕んでいる。

 だからこそ、ライヴ・パフォーマンスは本質的に降霊術なのである。夜ごと召還される幽霊=エラーに立ち会うために観客はライヴ会場へと足を運ぶ。ライヴの魅力はむしろその差異=エラーにこそ宿っていることは言うまでもない。目の前で確かな存在感を放つライヴ・パフォーマンスは、一晩で消えゆくことを定められた幽霊でもあるのだ。

 永遠とも思われる引き延ばされたスローモーションの果てに、ステージ上には幽霊役の吉田翔(Gt.)だけが残る。(ほぼ)無人のステージに聞こえる「お気づきだっただろうか?」という言葉。だがもはや(ほぼ)無人のステージに観客はたしかに幽霊を見ていた。一晩限りのライヴ・パフォーマンスの向こうに広がる無限の時間に潜む幽霊たち。パフォーマンスの終盤に用意された退屈でほとんど無為にさえ思える時間。しかしそのような時間の果てにこそ、観客は幽霊と邂逅し得る。そのことに「お気づきだっただろうか?」と改めて問う必要はおそらくないだろう。