2014年core of bells月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』第二回公演「moshing maniac 2000」

フロアは熱狂に包まれていた。メンバーの登場前からフルボルテージのCOBコール。前座のNEVER END RAINBOWでの鬱憤はかえってcore of bellsへの期待を高める結果となったと言えるだろう。「Anything but the C×O×B」冒頭の一音は衝撃となって空間を揺らし、ギャルソンのボルテージは限界を越える(言うまでもなく、ギャルソンとはファナティックなCOBファンを指す呼称であり、彼らはみな一様に黒いCOB-Tシャツを身につけることでバンドへの忠誠心を示す)。あとはただただケイオティックな狂乱。ひたすらに肉体の衝突。モッシュモッシュモッシュ!それは『moshing maniac 2000』の名に恥じぬ肉と音との格闘技だ。肉と肉とがぶつかり合う熱。その愛。手足がちぎれんばかりに身をくねらせダイブをキメるギャルソン。突き上げられる拳。COBというドラッグで真っ白にヒートアップした頭にそれはときにスローモーションのようにさえ映る。われわれはCOBを見に来たのではない。COBに、その音になるために来たのだ。ギターの、ベースの、ドラムの振動はフロアと共鳴し、われわれのハートを震わせる。あの日あの空間で刻まれた鼓動をわれわれは決して忘れないだろう。COBは生きることと音楽とが等価であり等価でしかあり得ないことを示してみせたのであった。

(あの日のSDLXの熱気の片鱗はtwitterハッシュタグ#MM2000でうかがい知ることができる。是非とものぞいて見ていただきたい。)

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さて、ハッシュタグはご覧いただけただろうか。もし見られる環境にあるのであれば、まずはハッシュタグに残された言葉を確認してからこの文章を読み進めていただければと思う。そこには「いかにも」なファンによる「いかにも」な言葉が『moshing maniac 2000』(以下『mm2000』)の「記憶」として残されている。だがしかし、その「記憶」は「本物」なのだろうか。その「記憶」が「本物」であるという判断は誰によって、どのような基準でくだされるのだろうか。現場に、つまりは2014年2月19日(水)の六本木スーパーデラックスにいることのできなかった観客にとって、自分ではない何者かによって語られる今回の上演の「記憶」は常に不確かなものでしかない。いや、突き詰めて考えれば、全ての「記憶」は不確かなものでしかないのではないか。「記憶」を他者と共有することはできない。であるならば、それは何によって保証され得るのか。

core of bellsは月例企画「怪物さんと退屈くんの12ヵ月」において「気配の移り変わりを使って作曲を試み」るという宣言をしている。『mm2000』で観客が目撃したものはまさに「気配」、言い換えるならば「空気」であり、というよりむしろ、今回の上演において観客はどこまでいっても「空気」を感じることしかできなかったと言うことができるだろう。最初から最後までcore of bellsが観客の前にその姿を見せることはなかったのだから。

会場は3つのゾーンに区切られていた。通常の客席とバンドセットの置かれている演奏ゾーン、その間には両者を分断するかのような(と言うか実際分断しているのだが)モッシュゾーン。緑色のネットによって四角く隔離されたモッシュゾーンはアンダーグラウンドな格闘技場のリングのようにも見える。モッシュゾーンにはエキストラとして仕込まれた数十人のモッシャーたちが蠢き、であるがゆえに、観客は舞台で演奏するcore of bellsの姿を見ることができない。観客が目撃するのはひたすらにcore of bellsの演奏に熱狂する「ファン」たちの姿であり、その熱狂の「雰囲気」だということになる。

さらに、客席の右手にはtwitterの画面が映し出され、ハッシュタグ#MM2000が付された今回のイベントの「実況ツイート」が流れていく。しかしその過熱気味の「実況ツイート」もまたモッシャーたちと同じく仕込まれたものであり、「本物の」観客と捏造されたタイムラインとの温度差が失笑を生む(なんせ「本物の」観客はcore of bellsの姿を見ることができず、その状態で狂乱のモッシュを見せられるのだから置いてけぼりなのである)。

「本物の」観客はいずれにせよライヴの「空気」だけを味わい続けることになるのだが、捏造されたタイムラインはさらに、上演そのものがフェイクなのではないかという疑惑を招く。タイムライン上を流れる言葉はいかにも嘘くさい。目の前のリングでモッシュに興じる観客は明らかに仕込みである。core of bellsの姿は見えない。…見えない? いや待て、そもそもcore of bellsはステージ上に本当にいるのか? たしかにcore of bellsの演奏は聞こえてくる。だがそれが本当に今演奏されているものだという保証はないではないか。そこにあるのは「空気」だけなのでは? 曲と曲との間には疑惑を煽るかのように潮騒の音が聞こえる。そこに海がないのは間違いない。ではcore of bellsは?

モッシャーたちは曲に合わせてさまざまなコンテンポラリー・モッシュを繰り出す。それが観客に認識されていたかは甚だ怪しいと言わざるを得ないが、寸劇が行なわれたり突如としてスローモーションが挿入されたりと、少なくともそこに段取りが存在していることは明らかだっただろう。彼らは事前にレクチャーを受けている。音楽に合わせて振り付けられた動きを実行しているという意味で『mm2000』のモッシュは一種のダンスなのだ。そして観客が見ているのがダンスであるならば、音楽が生演奏である必要は必ずしもない。

さまざまな角度から浮かび上がるcore of bells不在疑惑。そして決定的な瞬間が訪れる。アンコール曲が終わったかと思うと大挙して会場の外に走り去るモッシャーたち。残されるのは無人のステージ。やはりcore of bellsは演奏していなかった…!

しかしこの結論もまた保留せざるを得ないのだった。なぜなら観客はモッシャーたちに紛れて走り去るcore of bellsの姿を目撃するからであり、たとえそれが見えなかったとしても、彼らが演奏していない状態もまた目撃されていない以上、演奏が行なわれていなかったと断言することもまた不可能だからである。

そしてもちろん、ここまでこの文章を読んできたあなたには明らかなように、この批評文もまた、真実を述べたものであるとは限らない(その意味で、第1回公演『お気づきだっただろうか?』に寄せられた佐々木敦の批評文は第2回公演を先取りしたものであったと言えるだろう)。幽霊の存在を信じるためには、結局のところ、自らそれを目撃するしかないのだ。

 

core of bells 2014年月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』

 

山崎健太 演劇研究・批評。SFマガジンにて「現代日本演劇のSF的諸相」連載中。@