2014年core of bells月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』第三回公演「Last Days of Humanity」

2014年core of bells月例企画第三回公演「Last Days of Humanity」(以下「LDH」)はあらゆる意味で文字通り傍若無人な、つまりは傍らに人無きがごときパフォーマンスだった。

会場である六本木スーパーデラックスに入るとそこはすでに謎の空間と化していた。段ボールや白いプラスチックボードなどで作られた構造物がそこかしこに立っている。チープな素材でざっくりとした作りの構造物、そして会場の散らかり具合が文化祭前日の教室を思わせる。一応の舞台となる中央の空間ではGt.の吉田翔が携帯片手に時に会場内をうろうろしながら中華(?)の予約を取り続けている。その後ろを付いて歩き、何やらメモを取り続ける女。舞台中央前方には女が倒れており殺されたかのような装飾が施されている。天井からは等身大の長方形のプラスチックボードが何枚か吊るされていて、どうやらそれは上げ下げ可能なようだ。会場にはおそらく中に人が入っているであろう巨大なショッピングバッグ(?)や衣装ボックス(?)が徘徊していて、しばしば奇声や鳴き声(?)を発しては腕や足など体の一部を突き出している。客席にはキャップと長髪で顔の見えない不審な男。不審な男が携帯電話を通じて出す指示(「営業スマイルをしてください」「最近あった悲しい出来事を言ってください」)は、下手にある構造物の壁に映し出される映像に映る男によって遂行される。彼は客席後方の構造物の中にいるようだ。下手の構造物の上部からは細長く切られた紙片が落とされ、上手の構造物の上部からはメジャーが長々と突き出される。会場中に広がるカオスを4、5人のカメラマンが撮影している。やがて長髪の男が「歌を歌ってください」と指示を出すと、会場のそこかしこから「SWEET MEMORIES」に唱和する声が聞こえ、開演の時間となる……。

と、パフォーマンス開始までの会場の状況をそれなりに詳細に描写したわけだが、この状況はパフォーマンスが始まってもそれほど変わらない。吉田以外のcore of bells(以下COB)のメンバーが姿を現わすこともない。もちろん曲の演奏も行なわれるのだが、およそ80分のパフォーマンスの中で演奏の占める時間はおそらく10分から15分ほどだったと思われる。つまり観客はほとんどの時間、「何だかよくわからない散発的に起きる出来事」を眺めて過ごすことになるのである。しかもそれらの出来事は客席後方を含めた会場中で起きるため、客席に座る観客がその全てを目にすることはできない(そこかしこに立つ構造物の中でも「何か」が起きている以上、そもそも観客は会場で起きる出来事の全てを見る/知ることはできないようになっている)。さて、それではこの一見無秩序なパフォーマンスのねらいは一体どこにあるのだろうか。このような問い自体がある種の罠に陥っているような気もしなくもないのだが、ひとまずは愚直にこのパフォーマンスの「解釈」を試みるとしよう。

一見して明らかなことは、この「Last Days of Humanity」という演目が何らかの形で「見える/見えない」を主題としているということだ。さまざまな形でかくれんぼめいたことが行なわれていることを考えれば、それはあまりにあからさまな主題であるかのようにも思われる。だがこの方向性についてはもう一歩考えを進めることができるだろう。そのヒントは舞台中央の「死んでいる女」と「カメラマンたち」にある。

舞台中央の「死んでいる女」は「見て見ぬフリ」をされる存在である。舞台中央で「死んでいる女」は本当は生きているにも関わらず「死んでいる女」という役割を過剰な死の装飾によって担わされており、ゆえに観客は彼女を「死んでいる女」として見る。最初から最後まで死んでいる状態にある彼女の役割は人形によっても代替可能なように思えるが、その役割がわざわざ人間によって担われているということは、「生きているにも関わらず死んでいると見なされること」に意味があったのではないだろうか。

「カメラマンたち」もまた、「死んでいる女」とは違った意味で「見て見ぬフリ」をされる存在である。カメラマンは明らかにCOB側によって用意された存在であるにも関わらず、観客が彼らをパフォーマンスの一部だと見なすことは(少なくとも最初のうちは)ない。なぜなら、パフォーマンスを記録するためにそこにいる(と見なされる)カメラマンはパフォーマンスの外部にいる存在だ(と見なされる)からである。ところが、このカメラマンたちはやがて「パフォーマンスの内部」へと侵入しはじめる。彼らは最初のうちは控えめに=観客の邪魔にならないように舞台の外側から撮影を行なっているのだが、やがてはパフォーマンス中であるにも関わらず舞台に入り込んでの撮影をはじめる。もちろん観客はそれ以前からカメラマンが会場内に存在することを認識してはいるのだが、カメラマンが舞台上に現われることで、観客はカメラマンもまたパフォーマンスの一部であるという印象を持ち、そのように見ることになるのである。ここでは「不可視」から「可視」への転換が起きているということが指摘できるだろう。

さて、では「LDH」の主たるねらいは「不可視」の「可視」への転換にあったのだろうか。しかし、それならば「死んでいる女」は生き返らなければならないはずである。ここで再度、「死んでいる女」に対する観客の認識を検討し直してみよう。まず、会場に入ってきた観客は「死んでいる女」を発見する。女に施された「死んでいる」装飾を見た観客は、女を「死んでいる」ものと見なすだろう。ここでは観客の認識は「そこにいることに気づく=可視」から「死んでいるものと見なす=不可視」へと移行している。ところが、この「不可視」の認識は不完全なものである。なぜなら、開場時から「死んでいる女」を見た観客は、意識的にであれ無意識にであれ、「この女性はこれからのパフォーマンスでどのような役割を担うのだろうか」と考え、パフォーマンスの中で女性が動き出すこと=「生き返ること」を予期するからである。しかし予想に反して女は「死んだまま」であり続ける。動かないものに注意を払い続けることは難しい。パフォーマンスを見ている観客の意識はいつしか「死んでいる女」から完全に離れ、その瞬間、女ははじめて完全に「不可視」な存在となるのだ。

実のところ、このような「可視」から「不可視」への移行こそが、「LDH」全体を貫くモチーフとしてある。一度は「可視化」されたカメラマンたちもまた、結局のところ撮影行為を続けるだけであり、変わった行動に出るわけではない。結果として、カメラマンの存在は「そういうもの」として観客の意識の片隅へと追いやられることになる。そう、「LDH」ではあらゆる奇妙な存在が「そういうもの」として片付けられていく。たとえば、パフォーマンスがはじまると舞台下手に一組の男女が登場し、応援団の「振り」のような動きをしはじめる。振りは延々と繰り返されるので、登場した当初は彼らに目を向けていた観客も、そのうち興味の対象を他へと移すことになる。「出来事の生起」は注意を集めるが、その「継続」は注意を散漫なものへと変えてしまう。その「出来事」が明白な意味を持たないようであればなおさらである。

「LDH」ではほとんど無意味とも思える出来事が散発的に生じ、その多くは執拗に繰り返される。観客は何かが起きる度にその出来事に注意を引かれるが、同じことの繰り返しにやがては興味を失うことになる。「退屈」とは興味を向けるべき対象のない状態を示す言葉だが、「LDH」の向かう先は「飽和した退屈」だと言えるだろう。観客は興味を引かれては失って、ということを延々繰り返した末に、注意の弛緩しきった状態に至る。様々なことが起きている会場は、しかし同時に至極散漫だ。Last Days of Humanity.「全てが希薄になってしまった人々の最後の日々」。core of bellsはいながらにして空気のように薄い存在に成り果てたのであった。

 

第1回公演第2回公演への批評と合わせて加筆修正したものを5/5(月・祝)の文学フリマにて発売のペネトラ4に掲載。

 

山崎健

演劇研究・批評。SFマガジンにて「現代日本演劇のSF的諸相」連載中。早稲田大学文学研究科表象・メディア論コース博士後期課程。@